紅縁会@3/23宇治メモ。

遅ればせながら23日の覚え書きを一応。
日にち薬と、先週帝劇に行ったりして、落ち込みが和らぎましたので(笑)。

舞台上にはスクリーンとパイプイスとまっくぶっくの乗った机が一つ。
BGMにはずっとアルバム曲がかかっていて、えにをゆいてのインストが終わると、ぬるっと上手から剛君登場
スクリーンには剛君の「とーくべつよしちゃん 紅縁会」の書が。
中盤から、剛君操作によりアルバムのMVの画像や歌詞が映され、さながら何かの研究発表。

・僕の別荘にようこそ。ここ(ホール)でいつも寝てるんですけど、今日は特別にイスを入れてもらって。こういうことを言ってると高田じゅんじさんみたいなので、そろそろ始めます。

・やっぱり関西は落ち着く。奈良からお水を取り寄せてご飯に使ってるけども、こちらに帰って温泉に入ったりするとお肌がツルツルになる。水の成分だけじゃなくて精神的にいいんだと思う。

・僕は何も宗教を興したいんじゃなくて、思想家になりたいんです。僕が言っていることがみんなの気づきになればいい。国を作るけども、おもしろそうだと思ったら入って来てくれたらいい。僕は円の中心にいて、みんなが周囲でそれを見て、何かのきっかけにしてほしい。

・しゃーまにっぽんのMVで踊る自分の画像を組み合わせて、「鶴橋で飲みすぎて千鳥足になり、時計見たらやばいやばい終電やんと急いで玉造で乗り換えたせいでお土産をどこかに忘れたので、出迎えた嫁がおどれ手ぶらで帰ってきやがって、と能面の顔で怒り狂う」というストーリーを作ってました。ここで会場が相当うけたので、つ「さすが関西やねえ、鶴橋と玉造でうけるねえ」とご満悦。

・言いたいことが一緒なので、どうしてもどの曲の歌詞も似てしまう。

・子どもと歌った曲の紹介では、男の子を膝に乗せた写真を。(この子がとても可愛いお顔だった。)

・(岩清水くんのアニメのくだりで、)雨が降ってくれてありがとうと手を合わす、そういう自然な感謝の気持は宗教以前に日本人にはある。震災のときも、自分が被災しながらも「剛君は大丈夫かな」とネットで心配してくれるファンがいて、そういう念じる心をシャーマンと表現してみた。僕も小さいときからお母さんに言われて、朝にご飯を「どうぞ食べてください」と仏壇にお供えしたし、朝日に向かって手を合わせたりした。今も家に神棚があって、各種(神さまが)取り揃えてあって朝晩お参りするけど、何か宗教を信じているということではない。

・(ロボットのアニメのくだりで、1体だけ流れに逆らうロボットは)これはじゃにーずでの僕ですね。(大うけ。)歌わず踊らずトークショーなんかで成立するの僕だけですよ。

・これからもっと、こういう僕の生の声が届くようなトークショーも増やしていきます。


自分が中心にいてファンが周りでそれを見る、イメージはしゃーまにっぽんのMVの状態かなと。
彼はみんなで手を取り合って同じ方向に進もうと言っているのではない。
たしかに、「くにのうた」はみんなで歌うために作られてないですしね。
平安ゆうきの映画でも彼とその場のお客さんとの距離(おそらく意図的な編集)を感じましたが、まさに彼がこれから創ろうとしているファンとの関係がそうなんだろうと。国民としての参加ではなくて、観覧を期待されているわけで。それはやはり、ライブというよりも儀式を見守る感覚なんじゃないかな。

20時からのイベントで18時(から20分刻みで分かれて)集合ってどうなん、と憤ってましたが、夕方の部に入った人が終了後夜の部にも相当入られるので、それが19時から受付となり20時開始間際になっていました。そういうことか。
しかし、奈良の会場なら外にご飯食べに出られるけど、宇治は周辺にお店なんかなんにもなくて、しかも土砂降りで、みなさん別棟のロビーなどで延々ぐったりと待たれてました。他に場所なかったんかなー。