祈り。

平安神宮一日目を追記しました。

以下、剛君の言う、祈りの大切さについて私が思ったことです。

祈ることはテクノロジーだ、と剛君がおっしゃってました。

「Pray for Japan」は今日本に掲げられていますが、それより個人的に、私には「祈り」に実体験として思い当たることがあります。
今年帝劇で震災に遭い客死の恐怖を体験し、関西に戻ってからもメディアで現地の甚大な被害を知識として知り、これはもう日本人の、人間の回復力を超えていると思わざるを得ませんでした。
ひしひしと明日に不安を感じ、何がしたくなったか。神仏に、それもとびきり大きな力に祈りたくなりました。
京都に身近に溢れる、貴族の念持仏などでは物足りなくて、向かったのは奈良の大仏様。
頻繁に奈良に行っても、拝礼するのはもう何年ぶりです。まさに大きな力。人間って単純だな、と思いました。
そして、発願されたときの民衆も、こういう切羽詰った恐怖感があったのだろうと。なるほど天皇勅願の国家事業、国難に決まってるよねと今更ながらに実感して。
手を合わせて頭に浮かんだのは、「この国をお守りください。」という言葉でした。もうそれしか。胸が苦しかったなあ。
こうして娯楽であるライブに参加できる今も、頭のどこかで、「as usual」 と気負う自分がいます。
剛君の使った「祈り」と「テクノロジー」の定義が彼と同じかどうかはわかりませんが、
仮にテクノロジーを技術や道具、とするならば、祈りは私が「as usual」でいるためのテクノロジーであることは間違いありません。
そして私もやっぱり、大勢の人の祈りが寄り集まれば何か自然の力が発動するんじゃないかという、日本人らしいアニミズム的な発想を持っています。祈りはテクノロジーだ、という言葉に素直なのは、こちらの解釈かもしれません。